伝説の豪速球右腕『炎のストッパー』津田恒実が残してくれたもの

  • 2015/8/4
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観る者の魂を燃え上がらせた”炎のストッパー”

先月7月20日は、『炎のストッパー』と呼ばれた広島東洋カープの津田恒実投手の22回目の命日でした。1993年の7月20日は津田さんが5度も出場し、自慢の快速球を披露したオールスター第1戦の当日でした。病魔に襲われてから2年余りの長い闘病生活にピリオドを打ち、早すぎる死に球宴会場の東京ドームは関係者が驚きとともに、深い悲しみに包まれました。

津田恒実の現役時代と闘病生活を描いた、『最後のストライク』など、書籍やそれを原作としたドラマなども放映されてきました。なお、『最後のストライク』とは、津田投手の命日がちょうどオールスターゲームの第1戦当日となった巡り合わせを、死期の「コントロール(制球)」に見立てての名称です。

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変化球をほとんど投げない

津田投手は山口県都濃郡南陽町出身で、山口県立南陽工業高等学校では、1年生の時からエース投手として活躍しました。1978年の第50回選抜甲子園に出場してベスト8の成績を残し、同年の第60回夏の甲子園では2回戦まで駒を進めました。高校卒業後は防府市に本拠を置いていた社会人野球の協和発酵(現:協和発酵キリン)を経て、1981年のドラフト会議で広島東洋カープに1位指名され入団します。

入団当初から当時のカープの監督である古葉竹識監督の期待も大きく、1年目の1982年には主に先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝きます。その後は怪我もあり思うような活躍を残せずにいましたが、1986年に抑え投手として復活して、前半戦を防御率0点台で折り返すなど、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献し、シーズン終了後にカムバック賞を受賞しました。

この年は津田投手の直球主体のピッチングというプレイスタイルを確立した年とも言えます。何とこの年の投げた球種の90%以上がストレートで、変化球はほとんど投げていません。150km/hを超える剛速球を武器に相手打者に敢然と立ち向かう姿は、後に『炎のストッパー』と形容されることになります。なお、この年の9月24日の巨人25回戦で、津田投手と対戦した原辰徳現巨人監督はストレートをファウルした際に左手の有鉤骨を骨折し、残りシーズンを全て欠場し、翌シーズン以降も左手首痛の後遺症に苦しむことになります。しかし後年、原監督は「あの時の津田との勝負に悔いはない」と当時から現在に至るまで繰り返し語っているそうです。また、1991年4月14日に津田投手の生涯最後の対戦打者となったのは、奇しくも原辰徳現巨人監督でした。

 

圧倒的な成績

津田投手のキャリアハイは1989年で、防御率1.63、12勝5敗28セーブを挙げる活躍で最優秀救援投手、ファイアマン賞に輝きました。当時はセイバーメトリクスなどの指標は用いられていませんでしたが、なんとこの年のWHIP(1イニングあたり何人の走者を出したかを表す数値)は驚異の0.78で、いかに打者を圧倒していたかが分かります。なお、WHIPは日本では公式記録とされていませんが、任意に集計した記録によると1リーグ時代に景浦將投手が1936年秋期に記録した0.72が最高で、メジャーリーグのシーズン記録(規定投球回到達者)はペドロ・マルティネス投手が2000年に記録した0.74であることからもこの凄さがわかります。

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病魔との闘い

1990年は、故障の為に僅か4試合の登板に終わり、同年のシーズン終了後から頭痛をはじめとする身体の変調を訴えるようになりました。そして1991年、前年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎えることになります。4月14日に無理を押して広島市民球場(当時)で行われた読売ジャイアンツ戦で、1点リードの8回表に先発した北別府学投手の後を受けて登板しました。しかし本来の投球は出来ず、無死二塁・三塁のピンチを招き、原辰徳選手に同点適時打を打たれるなど、わずか9球で降板して敗戦投手となりました。これが津田投手の生涯最後の登板となってしまいました。

この試合の翌日、広島大学病院に検査入院しますが精密検査の結果、手術で摘出できない位置に悪性の脳腫瘍があることが判明します。その後、本人の意思により退団届を提出し、同年11月6日付で受理され現役を引退します。一時は奇跡的な回復を見せ、現役復帰に向けたトレーニングも行うようになりましたが、1992年6月頃を境に再び病状が悪化してしまいます。本人も再度マウンドに上がるという奇跡を信じていましたが1993年7月20日14時45分に同病院において32歳の短い人生を閉じることになりました。

 

現在も受け継がれる遺志

津田投手の座右の銘である『弱気は最大の敵』『一球入魂』といったものは、自らの精神的な弱さを克服するために心がけていたものであったそうです。二つの座右の銘を書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板する前には必ずそのボールに向かって気合を入れていました。津田投手の功績と人柄を称え、広島市民球場の1塁側ブルペンには「直球勝負 笑顔と闘志を忘れないために」の文章が浮き彫りにされたメモリアルプレート(通称:津田プレート)が設置されました。本拠地がMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移ってからも、1塁側ブルペンにこのプレートは移設され、現在もカープの投手はこのプレートに一礼してからマウンドに上がっています。

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毎年オールスターを迎え、後半シーズンを迎えると津田投手の快投を思い出します。津田投手の魂の投球スタイルは、まさに記録よりも記憶に残る選手だったと言えると思います。

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