史上最高の日本シリーズ?!92年と93年の西武 vs ヤクルト

  • 2015/9/14
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黄金期の西武とヤクルト

92年と93年の日本シリーズ

90年代、共に黄金期を築き上げた西武とヤクルト。特に西武の90年〜94年にかけてのパリーグ5連覇は現在でもリーグ記録となるほど、圧倒的な強さを誇っていました。その中でも92年と93年のヤクルトとの日本シリーズは球史に残る名勝負と言われています。

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オールスター戦のような戦力の西武

当時の西武の主な戦力は、今振り返っても夢のようなチームでした。

野手陣では秋山幸二選手、オレステス・デストラーデ選手、清原和博選手、石毛宏典選手、伊東勤選手、辻発彦選手、平野謙選手、田辺徳雄選手などを中心に圧倒的な攻撃力を誇っていました。

投手陣は80年代後半から90年代前半に獲得したタイトルを挙げるとその凄さが分かります。

渡辺久信投手(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源投手(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康投手(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕投手(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、渡辺智男投手(最優秀防御率1991年)、鹿取義隆投手(最優秀救援投手1990年)などです。

この戦力を武器に9月にはリーグ優勝を決めました。

 

4チームのせめぎ合いを制したヤクルト

対するヤクルトは、1992年のシーズンは広島・巨人・阪神との優勝争いとなりました。

西村龍次投手と岡林洋一投手以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野光投手、5月に伊東昭光投手と、故障で長期離脱していたベテラン選手が復活し、前半戦を3位で折り返します。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエル選手が本塁打を量産し、一時は首位に返り咲きますが、投手陣全体の駒不足に苦しみ9月に入り9連敗を喫してしまいます。一時は3位にまで下がってしまいますが、9月24日に荒木大輔投手が1541日ぶりの復活登板を果たしたことをきっかけに息を吹き返します。

この年は混戦となったため、同勝率だった場合はプレーオフを実施するとあらかじめ決定していました。結局最後までもつれたリーグ戦は10月10日の甲子園での直接対決を制し14年ぶりのリーグ優勝を果たします。野手陣では後半戦だけで30本塁打のハウエル選手は首位打者と本塁打王の二冠とMVPも獲得するなどの大活躍。他にも古田敦也選手はキャリア唯一の3割・30本塁打を達成しており、池山隆寛選手も30本塁打、広沢克己選手も25本塁打など、どこからでも本塁打が出る強力な打線でした。

 

シリーズ開幕前から場外戦が繰り広げられる!

92年は2位に大差を付けて早々と3年連続の優勝を決めた西武に対し、ヤクルトは4球団が優勝を争う大混戦をシリーズ開幕の1週間前に辛うじて制しての優勝でした。このため、戦前の予想は圧倒的に「西武有利」「ヤクルト劣勢」でした。

また、シリーズ開始前は森、野村両監督の舌戦が話題となりました。両監督は同年代のそれぞれセ・パを代表するキャッチャー出身であったことなどからも注目を集めました。

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ほぼ全試合が接戦!

1992年の日本シリーズは全7試合中4試合が延長戦で、西武が王手をかけた後の第5戦から残り3試合すべて延長戦という熱戦となります。

ヤクルトは第一戦の杉浦亨選手のシリーズ初となる代打サヨナラ満塁ホームランや第六戦の秦真司選手のサヨナラホームランなど、接戦を制するサヨナラホームランを二本放ちます。対する西武は第二戦の清原選手、第六戦の秋山選手など、虎の子の1点・2点となる効果的なホームランを投手が守り抜きます。

しかしこのシリーズを盛り上げた最大の功労者はヤクルトのエース・岡林洋一投手ではないでしょうか。第1・4・7戦に先発登板し、いずれも完投し、敢闘選手賞を受賞します。3試合中、延長戦が2試合あったため、計30イニング、430球を投げ抜きました。日本シリーズで3完投以上を記録したのは、1964年のジョー・スタンカ以来28年ぶり4人目、投球回数30回は1959年の杉浦忠以来33年ぶりのことで、当シリーズ3試合を通しての防御率は、最終的に1.50と傑出しているにもかかわらず、1勝2敗に終わってしまいます。

 

ディフェンスの差で勝った西武と、『ギャンブルスタート』を発案したヤクルト

結局最終戦で、西武の石井丈裕投手がヤクルト岡林投手との延長10回の投げ合いを2-1で制し、西武が日本シリーズも3連覇を果たします。森監督は、西武の監督退任後の自著でこのシリーズを

「このときほど先の見えない厳しい戦いを強いられたことはなかった。冷静になって振り返ると、明暗を分けたのはディフェンスの差だったかもしれない」

と振り返っています。

西武はこの試合の7回の守りで、1死満塁のピンチを迎えます。ここで杉浦選手のセカンドゴロを本塁封殺し、結局この回を無失点で切り抜けます。西武のセカンドを守っていた名手・辻発彦選手は

「杉浦選手はプルヒッターだから自分のところへ飛んでくる可能性は高い。日本シリーズ最終戦で同点の終盤。1点もやりたくない場面なので自分の所にボールが飛んで来たら、何としてもホームでアウトを取ろうと考えていた」

と語っています。

このプレーが勝敗を分けるポイントとなったヤクルトは、これを教訓に、現在では定着した『ギャンブルスタート』という作戦を野村監督が考案します。打者がミートした瞬間に三塁ランナーは本塁に向かってスタートを切るという作戦で、ライナーだとダブルプレーになるリスクを抱えていることから『ギャンブルスタート』と呼ばれており、この作戦が翌年の日本シリーズの勝敗を決定づける布石となります。

 

リベンジを果たしたヤクルト

そして1993年日本シリーズ。野村克也監督率いるヤクルトスワローズと森祇晶監督率いる西武ライオンズの2年連続の対決となった1993年の日本シリーズは、ヤクルトが4勝3敗で勝利して15年ぶり2度目の日本一となり、森西武が遂に日本シリーズで敗れるという歴史的なものとなりました。前年と同じ顔合わせで勝者と敗者が入れ替わった最初のシリーズでもあります。また、野村監督にとって監督として初めての日本一となりました。

第4戦でヤクルトの中堅手・飯田哲也選手が鈴木健選手の安打の打球を処理し、二塁走者の笘篠誠治を本塁でタッチアウトにした返球は、日本シリーズ史上に残るファインプレーと言われており、また、野村監督も選手が自分で考え行ったこのプレーにチームとしての成長を感じたと本シリーズ終了後に述懐しています。

 

最後に起こったビッグプレー

最後にヤクルトが西武を敗北に追い込んだのは、古田敦也選手のたった一度の命令違反だったそうです。前年と同じく最終戦までもつれた第7戦、ヤクルト3-2でリードの8回表、 古田選手が三塁打を放って、1死3塁で広沢選手が打席に入ります。ここで古田選手は前年、敗北の教訓として編み出された『ギャンブルスタート』のサインが出ると確信しました。しかし、野村監督の指示は「ギャンブルはしない」というものでした。それは西武が極端な前進守備をとっていたからでした。しかし古田選手は『ギャンブルスタート』をするのはここしかないと思い、サインを無視してスタートします。結局広沢選手はショートゴロで、古田選手は試合を決めるホームインをします。

後日古田選手は

「僕の能力以上のものがあの瞬間に出た。監督の予想を上回るプレーができた」

と語っており、野村監督は

「強かったはずだ。選手がいい自覚を持って野球をしてくれた。何も言わなくても選手が動く”と語っていました」

この試合は初回にそれぞれヤクルト・広沢選手の3ラン、西武・清原選手の2ランの3-2のまま膠着しており、次の1点は試合を決める貴重な1点となるものでした。このリードを8回から登板の高津臣吾投手が無失点に抑えて、このシリーズ3セーブ目をあげるとともに、シリーズ制覇となりました。前年の勝敗を分けたプレーの教訓が生かされて、リベンジを果たすというのはまるでドラマのようですね。

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今年もあと1か月ほどでシーズン閉幕を迎えシリーズが開幕します。まだカードは分かりませんが、球史に残るような名勝負を期待したいですね。

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