有言実行でパ・リーグを変えた男・新庄剛志!「SHINJO前後」で球界はどう変わったのか
今のパ・リーグを作った男
2004年、メジャーから日本球界に復帰した新庄剛志選手。彼がファイターズに在籍したのは3年間。その3年間は、パ・リーグに大きな影響を与えています。今のパ・リーグの盛り上がりを、誰よりも早く予想し、その盛り上がりに誰よりも貢献した選手であると言えるでしょう。
今回は、新庄選手がファイターズに移籍する前を「SHINJO前」。新庄選手が引退後を「SHINJO後」とし、その功績をもう一度考えてみました。
「SHINJO前」のパ・リーグ
日本のプロ野球界は昔から「人気のセ・ 実力のパ」と言われていました。実際に日本のプロ野球界の歴史に残っているスーパースターは、王貞治選手、長嶋茂雄選手、江夏豊選手、佐々木主浩選手、松井秀喜選手、そして新庄選手も当初は阪神タイガースの選手であり、人々の記憶に残るようなスター選手はセ・リーグの選手に多くいました。
テレビや新聞で取り上げられるのも、セ・リーグがほとんど。地上波中継もジャイアンツの試合がメインのため、知名度・観客動員数でもセ・リーグに劣っていました。それは数字でも顕著に表れており、セ・パの総試合数が同じになった1969年から、これまでずっとセ・リーグが観客動員数で上回っています。
プレーとパフォーマンスで注目をパ・リーグへ
新庄選手は日本球界に復帰した際、
「これからはメジャーでもありません。セ・リーグでもありません。パリーグです!」
と宣言。その後の3年間、新庄選手のプレー、そして行動は何度も話題になり、今でも語り継がれるものとなっています。
オールスターゲームでは前代未聞のホームスチールの成功。満塁サヨナラホームランのはずが、前走者を追い越し記録上サヨナラヒット。札幌ドームの天井からロープで突然降りてくるパフォーマンス。戦隊物にふした仮面をかぶって話題になった「ゴレンジャー」。
常にプロ野球の話題を自分がさらうことで、テレビ・新聞でも取り上げられるようになり。世間の注目がパ・リーグに向くように尽力しました。
「SHINJO後」のパ・リーグ
新庄選手はもともとパ・リーグの可能性に気づいていました。2004年の球界再編騒動の際に次のようなセリフを残していました。
「プロ野球の存在意義は、その街の人々の暮らしが少し彩られたり、単調な生活がちょっとだけ豊かになることに他ならない。ある球団が中心で物事を進ませるセ・リーグにはない、野球くささをパ・リーグは持っている」
パ・リーグが持つ野球本来の魅力に気づいており、新庄選手は見事にその花を咲かせたと言えます。
新庄選手の引退後も、パ・リーグにはファンサービスを大切にする華のある人気選手が続々と出てきています。
特に日本ハムの選手はファンサービス精神旺盛な選手が多く、新庄選手のつけていた背番号「1」をつけている陽岱鋼選手は、積極的にファンと触れ合い、内野がタイムで集まっている時には外野のファンとキャッチボールをすることもありました。
近年ではセ・パの観客動員数の差も少しずつ狭まってきており、2016年は球団別に見るとホームゲーム観客動員数トップ5にパ・リーグの2球団が入り、新庄選手のいたファイターズは2016年初の観客動員数200万人越えを達成しました。パ・リーグ自体も2016年は初の1100万人超えています。
「イチロー君は記録。僕は記憶。」
このセリフに間違いのない功績を残した新庄選手。今後日本球界で「第二の新庄」は生まれることはあるのか。注目していきましょう!
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