本記事はSpotunityコラムからの転載です
エリートのスポーツだった日本の野球
日本とアメリカでは、野球の根付き方、広がり方は大きく異なる。
アメリカでは労働者の遊びとして広がり、すぐにセミプロ、プロが生まれたが、日本の野球は、アメリカのお雇い外国人(主として教師)がもたらした。近代日本のエリートを養成する学校で、学生たちにアメリカの教師たちが教えたのだ。
その後、留学生たちも野球を持ち帰り、本格的に広がるようになった。エリート学生は、地方に教師として赴任し、その地で野球を広げた。日本では野球はエリート学生の遊びであり、学生野球が長く主流だった。
明治中期には「一高時代」と呼ばれる第一高等学校が無敵の時代があった。一高とは言うまでもなく今の東京大学だ。
その後早慶の2校が強い時代に移行し、大正時代に大学野球のリーグ戦が始まる。
大正中期には、全国中等学校野球大会が始まる。今の高校野球だ。こうして野球は日本全国に広がり、人気スポーツとなった。
アマチュアリズムが尊ばれる
もともとアメリカからもたらされた野球だが、日本では独自の進化を遂げる。
「一球入魂」と言われる精神主義が重要視された。その反面、商業主義は厳しく戒められ、アマチュアリズムが尊ばれた。
そのこともあって日本にプロ野球が生まれたのは野球がもたらされて60年も経ってからだ。
1934年にベーブ・ルース一行が来日した際に、大日本東京野球倶楽部が結成され、これがのちに読売巨人軍となった。
1936年にペナントレースが開始される。しかし戦前のプロ野球(職業野球)は、観客数も少なく、知名度も限定的だった。
学生野球側からの蔑視も激しく、法政大学の鶴岡一人は、南海に入ったところ「野球芸人になるつもりか。母校の恥だ」と除名されそうになった。
すぐにつぶれた「国民リーグ」
終戦後、野球は占領軍政策の一環として大いに奨励された。占領軍の内政面の責任者マーカット准将は、自信も野球選手であり、大の野球ファンだったのだ。
特にプロ野球は、アメリカの文化を伝える手段とも考えられ、ボールや用具が提供されるなど強力な支援を得た。
この時期のプロ野球は8球団だったが、もう一つリーグを作ろうという機運が起こり、「国民リーグ」が創設された。
「国民リーグ」は4球団によってはじめられた。球場はプロも使用する既存の球場が使われたが、プロ野球側は一切協力をしなかった。
このため、国民リーグは不入りに悩み、シーズン途中で活動を停止した。
プロ野球組織以外のプロチームという点では、この「国民リーグ」が、最初の「独立リーグ」だと言えよう。
けんか別れによる2リーグ分立
1950年には2リーグ分立騒動が起こる。プロ野球を創設した讀賣新聞の正力松太郎が2リーグ制に言及し、多くの企業が参入を表明したのだ。
しかし巨人など既存の球団の多くは新球団の参入に反対だった。「国民リーグ」のときもそうだが、日本のプロ野球界は、エクスパンション(拡張)によって、市場が広がり観客数が増えるという発想がない。
球団が増えればお客を取られる、自分たちの興行収益が減ると考えた。特に巨人は、ライバルの毎日新聞がプロ野球に参入するのに激しく抵抗した(正力はこの時期、戦犯だったこともあり、讀賣新聞を一時的に離れていた)。
結局、巨人を中心としたグループと、毎日を中心としたグループが、セントラル、パシフィックの両リーグを設立し、けんか別れのようにして2リーグ制が成ったのだ。
以後もセ・パ両リーグは何かといがみ合いながら現在に至っている。
独立リーグが生まれる余地がなかった昭和時代
昭和の時代、日本で独立リーグが生まれる機運は全くなかった。その必要性も余地もなかった。
野球はナショナルパスタイムとして国民に愛されていた。プロ野球中継は20%を超える高視聴率を誇り(もっとも巨人戦だけだが)、高校野球は全国で盛んにおこなわれていた。大学野球は、プロ野球に人気1位の座を譲ったが、依然人気スポーツだった。
また、大企業では社会人野球チームを持っているのが当たり前とされた。都市対抗野球も人気があった。
野球少年は、高校、大学と野球を続ければ、プロに指名されなくても社会人野球に進むことができる。高校、大学の指導者の道もある。野球で生きていく道は、いろいろあった。
日本全国に社会人野球チームがあった。日本のプロ野球は、親会社の広告部門だが、社会人も実質的に同じような位置づけだった。社会人選手はセミプロだったのだ。
アマチュア野球とプロ野球は選手の引き抜きをめぐって激しく対立してきたが、その中身は同質と言ってもよかった。
こういう形で戦後半世紀以上、野球界は繁栄してきた。ナショナルパスタイムとして、大きな人気を博してきたのだ。
景気低迷、企業の変化で窮地に陥った社会人野球
この人気に陰りが見えたのは20年ほど前のことだ。バブルがはじけて日本の景気は低迷し、企業の収益も悪化した。企業スポーツは、経費削減のやり玉に挙げられ、次々と閉鎖、縮小を余儀なくされた。
社会人野球でいえば、1978年に179あった企業チームは、98年には142に、2016年には88に減っている。そのかわりにクラブチームが131から258に増えている。
これまで社会人野球の選手たちは、サラリーマンとして企業から給料をもらい、野球をしていたが、その環境が大きく変化したのだ。
ある社会人野球の指導者は「企業チーム時代は、野球のことだけ考えていればよかったが、クラブチームになると、試合の経費や維持、運営コストも考えなければならなくなった。今までやったことがなかったので、すごく大変になった」と言った。
企業スポーツが衰退したのは景気の悪化だけが原因ではない。企業の会計基準が変化して、株主のために「収益性」を高めることが求められるようになったことが大きい。儲かっている企業でも、不採算部門は厳しく指摘される。
これまで企業スポーツは「企業のイメージアップ」「従業員の一体感を醸成する」などの根拠で運営されたが、数値的な根拠を示すのが難しいために、株主総会や役員会で中止、縮小の議決をされるケースが出てきたのだ。
日本の独立リーグの誕生
結果的に、21世紀に入ってから、野球少年の未来はずいぶん窮屈なものになった。プロに行けないまでも、高校、大学から社会人へ、というルートは狭き門になった。
私は野球強豪校の選手に話を聞くことがしばしばあるが、「プロに行く」という一握りの選手は別として、他の選手の口から「社会人野球」の名前が出ることはほとんどなくなった。「指導者になりたい」「スポーツ医療の道に進みたい」という選手が大半だ。
現在存続している野球の独立リーグは、西武などで活躍した名三塁手の石毛宏典が関与して創設されたものだ。
石毛はアメリカに野球留学し、アメリカでマイナーリーグや独立リーグの球団が地域に根差して活動し、多くの観客を集めていることを知り、日本にも独立リーグを創設する必要性を感じた。
2004年、四国に独立リーグを創設。その運営会社IBLJの社長になる。
さらに2008年には関西独立リーグも設立。
2006年に創設の機運が起こったBC(ベースボールチャレンジ)リーグの経営には直接タッチしていないが、積極的に協力をしている。
石毛は、社会人野球が衰退している中、野球で生きていきたい若者の受け皿となることも独立リーグの意義だと語った。野球の未来を見据えた、先見の明のある決断だと言えよう。
紆余曲折はあったが、3つの独立リーグの内、四国アイランドリーグplusとBCリーグは今もリーグ戦を維持し、ドラフトでプロ野球に選手を送り込んでいる。
その道のりは、苦難に満ちたものだったが、石毛の「志」は、現代まで受け継がれていると言ってよいだろう。
橋下大阪府知事(当時)が始球式をした関西独立リーグの開幕戦
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