希望を捨てず、安い契約金・年俸からでも勝ち抜いてスター選手に!ドラフト外での入団選手たち

待遇低・期待低のスタート地点

1991年に制度が廃止されるまで、数々の選手がドラフト外入団でプロ野球選手となりました。

安い契約金・年俸、そして多くを期待されず、待遇だけでなく機会にもめぐまれないスタート地点。そこから自らの可能性だけに賭け、生き抜くための自分だけの武器を見いだしそれを磨き、一流の域に達した選手たちがいました。


 

先発も抑えも超一流『二枚腰の左腕』:大野豊

軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たした大野選手。入団当時は契約金なし、俸給は月額12万5千円と決して恵まれた待遇ではありませんでした。

1年目の登板は1試合のみ。この時、満塁ホームランを打たれるなど、アウト1つを取ったのみで降板となり、自責点5、防御率135.00という成績になってしまいました。この試合後、大野投手はあまりの悔しさに泣きながら歩いて寮まで帰り、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があったほどです。しかし、

「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」

とも語っています。

プロ入り2年目、南海ホークスから移籍してきた江夏豊投手と二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組みます。時に鉄拳も飛ぶ厳しい指導の末、やがて大野投手は中継ぎの柱へと成長を遂げます。「気の弱い大野に抑えは無理」と非難を浴びながらも1981年に8勝11セーブ、翌1982年には10勝11セーブを記録しました。

1984年から先発に転向し、日本シリーズ制覇、リーグ優勝、1990年までに4度の二桁勝利を記録し、1988年には13勝7敗、防御率1.70という好成績で最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞も受賞しました。翌1989年にも防御率1.92を記録し、2年連続防御率1点台という成績を収めます。1970年以降、2年連続防御率1点台を記録した選手は大野、ダルビッシュ有、内海哲也、田中将大の4投手だけです。

様々な変化球を駆使するさまは『七色の変化球』と言われ1980年代広島投手王国を支えました。

1991年には14試合連続セーブという日本記録(当時)も樹立、開幕からの連続セーブとしては現在も日本記録で、チーム6回目のセ・リーグ優勝に大きく貢献しました。

1993年シーズンオフ、メジャーリーグのエンゼルスから広島に、大野投手をチームに獲得したいというオファーがありました。当時はまだ野茂旋風の前で、メジャーリーグに挑戦する日本人選手はいても、メジャー球団から日本の現役選手に誘いが掛かることは異例中の異例でした。しかし本人は高齢を理由に断わりました。

そして22年の選手生活を全うしました。引退当時の年齢は43歳。通算148勝138セーブ、生涯防御率2.90。

また、引退後も現役時代と変わらぬ体格を維持し続け、プロ野球マスターズリーグに参加し46歳ながらマスターズリーグの最高球速記録146km/hの投球を見せ、ファンを驚かせました。

 

ドラフト外初の『2000本安打』:石井琢朗

当初は投手としてプロ入りした石井選手。高卒1年目から一軍で登板。そして先発勝利を挙げます。「桑田二世」と評価され、投手として将来を嘱望されましたが、本人はプロ入り当初から野手志望であり、3年目のオフに野手転向に踏み切りました。

2000本安打を達成、遊撃手として通算最多試合出場記録を達成。盗塁王4回、最多安打2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回、そしてチーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献しました。

ちなみに2000本安打以上を記録した打者で、投手として勝ち星を得ているのは石井選手と川上哲治さんのみだったりします。


 

世界の福本を震撼させた『サイクル盗塁』:島田誠

1976年に日本ハムファイターズの入団テストを合格し入団。

1979年6月5日、島田選手は西武ライオンズ戦で1イニング3盗塁(二盗、三盗、本盗)を成功させました。

この年、自身最高の55盗塁を記録するも、パリーグは盗塁王・福本豊の時代で、福本選手は60盗塁でこの年も盗塁王となり、島田選手はプロ生活では一度も盗塁王をとることができませんでした。しかし通算でシーズン打率3割以上を3回経験し、ベストナインを2回、ゴールデングラブ賞を6回受賞しました。

西武黄金期を支えた『犠打新記録』:平野謙

プロ入り1年目投手として2軍で登板し、2勝を挙げた。そして2年目の春季キャンプ外野手に転向。3年目から俊足を生かすため右打ちからスイッチヒッターに転向。4年目から守備が評価され1軍に。しかし打撃が課題だったため、一軍に帯同して110試合に出場しながら昼は二軍の試合にも出場した。翌5年目にレギュラーだった選手がオープン戦で死球を受けて負傷している間に好成績を残し、2番・中堅手として開幕スタメン入りを果たしました。

1990年には当時の日本記録を更新する通算265個目の犠打を決め、1988年から1992年まで5年連続でパ・リーグの最多犠打を記録。

西武黄金時代になくてはならない存在となり日本一を4度も経験。最多犠打7回、盗塁王1回、ベストナイン1回 、ゴールデングラブ賞9回。
 

まだまだ他にも魅力的なドラフト外入団選手たちがいます

他にもドラフト外入団で活躍した選手はまだまだいます。

  • 江本孟紀
  • 加藤初
  • 松沼博久松沼雅之兄弟
  • 西本聖
  • 松永浩美
  • 鹿取義隆
  • 秋山幸二
  • 木村拓也

などなど、他にも魅力的な選手がたくさんいます。

皆さんの好きなドラフト外入団選手は誰ですか?


記事のシェアありがとうございます!
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Avatar photo

G-TIMES編集長総合編集長

投稿者プロフィール

野球に関する様々な情報・意見を発信するサイトG-TIMESの編集長です。


いいね!して
いち早く記事を読もう!
   ▼
   ▲
G-TIMESベージに[いいね!]しよう!



この著者の最新の記事

関連記事

ピックアップ記事

  1. [ad_res_mid] 2024年は、侍ジャパンにとって重要な年となります。3月には侍ジャ…
  2. 大谷翔平は、その二刀流の才能と圧倒的なパフォーマンスで、世界中の野球ファンを魅了しています。しかし…
  3. 「コンディショニング科学」の観点から研究した結果、体重とスイング速度の関係よりも、除脂肪体重とスイ…
  4. ※書籍「超える技術」からの一部転載です 私が野球を始めたのは8歳からで、小学3年生の時である…
  5. 十六歳で野球で渡米しメジャーリーグを目指してアメリカ各地を転々としていたというサバイバル生…
ページ上部へ戻る