元中日ドラゴンズ・故 大豊泰昭さんの壮絶なる人生
- 2015/2/20
- プロ野球
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2015年1月18日(日)、元中日ドラゴンズの大豊泰昭さん(51)が急性骨髄性白血病のため名古屋市内の病院で他界されました。
一歩足打法で王二世といわれた大豊さんの人生について振り返ってみたいと思います。
王貞治さんに憧れて台湾から日本野球界へ
台湾出身の大豊さんは、中学では台湾大会優勝、高校では世界大会優勝し、日本で活躍していた王さんに憧れて、日本へ行くのを決意し、名古屋商科大学・硬式野球部へ入学します。ベストナインを4度受賞し、通算24本塁打はリーグ記録でありました。
中日へドラフト2位入団、本塁打55本を目標に背番号は55
1988年に中日へドラフト2位で入団。一軍・二軍を行きする中、3年目の秋季キャンプで張本勲に勧められ、一本足打法を始める。そして5年目に38本塁打、107打点で晴れて二冠王を獲得しました。なにより大豊さんは努力の選手だったと言います。
王さんの一本足打法の私生活を聞き、大豊さんも私生活でもすべて一本足でするように徹底しました。
トイレやテレビを見るときも一本足。結果を残しながらも、「練習の虫」と言われるほど、練習量は半端なく、自分に厳しい選手でした。
そして1998年にトレードで阪神へ。
野村克也さんが監督に就任すると何度も激突し、試合途中に着替えて甲子園から帰ったこともありました。
大豊さんの気持ちはただひとつ、
「俺は野球をしたい、打ちたい、結果を出したい。それだけだ。」
通算277本塁打、1089本安打という記録を残して、最後は中日に戻り、引退しました。
引退後、妻の急逝。そして自身の闘病。
引退後に名古屋で中華料理店を開くも、その数年後に妻が突然の心筋梗塞に倒れ、45歳の若さで亡くなられました。
ふたりの娘のために、必死に仕事から家事までこなす中、妻の死から4年後、今度は自分に急性骨髄性白血病が発症。骨髄移植に成功し、退院することができたが、闘病生活はその後も続きました。そして先日、急性骨髄性白血病のためお亡くなりになりました。まだ51歳でした。
野球界から、大豊さんを惜しむ声
山本昌選手
「一緒に辛い思いもした。体が悪いのは知っていたけど、非常に寂しい。最後に会ったのは去年の初め頃にナゴヤ球場で。随分痩せられたなと思った。」
星野仙一さん
「入院しているときに一度電話がかかってきて『もうダメです』と弱気なことばかり言うから『バカヤロー』って怒鳴ったことがあったんだ。早すぎる。日本人の若者にはないいい意味の頑固さや我慢強さがあるヤツやった…。オレより先に逝きやがって…」
大豊さんは、
「55歳になるまでに病気を治し、少年野球を教えたい。」
と語ってたといいます。
中日ドラゴンズでは、追悼セレモニーを現在検討しているとのことですが、記録にも記憶にも残り、日本野球界を盛り上げてくれた元主砲の姿はこれからも皆の記憶に残り続けることでしょう。
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