スパイ扱い?!日本初のスコアラー『データ野球』の生みの親 尾張久次ってどんな人?
- 2016/5/12
- プロ野球
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プロ野球草創期に現れた「データ野球」の第一人者
パソコンもビデオもなく、スコアブックは選手が簡単に記入する程度だった草創期のプロ野球。そんな時代に、日本初のスコアラーが存在していたことをご存知でしょうか。「データ野球を呼び込んだ男」と呼ばれた尾張久次さん。彼は一体どのようなスコアラー人生を歩んだのでしょうか。
45歳で新聞社を退社、南海ホークスへ
スポーツ毎日の記者で、学生時代から野球の記録・データを熱心に分析していた尾張さん。7色のペンを使って打球方向や配球図を描く独自の記録法を編み出し、当時担当していた南海ホークスの鶴岡監督に一目置かれる存在となっていました。
尾張さんは自らの分析で得た膨大なデータを年俸査定にも応用してもらおうと思い、その手法を鶴岡監督に伝えますが「南海にはそこまで細かいデータを取れる人間はいない」と断られてしまいます。そこで尾張さんは「それならば自分を雇ってください」と訴え説得し、45歳で新聞社を退社。南海ホークスに球団職員として入団することとなりました。
選手たちから「スパイ」扱い
1954年に日本初のスコアラーに就任した尾張さんでしたが、当初選手からは「親会社の回し者じゃないのか」「外部から入ってきた人間に指図されたくない」と煙たがられました。しかし、尾張さんは
いずれは理解してくれる。自分のデータで活躍してくれればいい。
と信じ、データ提供し続けます。すると選手は尾張さんのデータの正確さや信憑性に気付き、徐々に認められるようになっていきました。
メジャーリーグも感服したデータ収集力
朝日新聞がメジャーリーグ球団を日本に招いた際に、ヤンキースのステンゲル監督に自身のデータ分析方法を見せる機会がありました。するとステンゲル監督は
これは凄い。日本の球団でここまでやっているチームがあると思わなかった。
と驚き、記録法から細かい項目まで尾張さんに質問したそうです。そして
分析技術、クセの研究は大リーグのスコアラー以上のものだ。素晴しい。
と評価を受け、尾張さんはこれに感銘を受けたそうです。
1983年日本シリーズの栄冠
南海では新監督と相性が合わず1978年に退団、ここでしばらく野球の現場から離れる予定でしたが、尾張さんの分析能力に目を付けた西武ライオンズが尾張さんをスカウトしました。
新天地となった西武ライオンズではオーナーの根本陸夫さんに「好きなようにやってください」と後押しされ、自らのノウハウを伝授した大規模なスコアラー陣を形成。短期決戦となる日本シリーズでは重要な役割を果たし、1983年、西武ライオンズは4勝3敗で初の日本一に輝きました。
データ野球を広め、現在の基礎を築く
データを重視した野球が成功を収めた事をきっかけに、他球団でもデータの収集・分析に対する考え方が変わっていきました。そこで尾張さんは自球団の後輩だけでなく、他球団のスコアラーにも惜しげもなく自身の記録術・分析法を伝授し、それからプロ野球は本格的にデータ野球到来の時代を迎えました。
今では当たり前となっているデータ野球。その誕生の裏には日本初のスコアラー、尾張久次という一人の男の存在があったのでした。