終戦後ホームランの魅力を伝えた『和製ベーブルース』大下弘ってどんなバッター?
- 2016/3/12
- プロ野球
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心優しきホームランバッター「ポンちゃん」
戦後の日本を元気にした赤バットの川上哲治、物干し竿の藤村富美雄、そして、青バットの大下弘。
戦後初の柵越え本塁打・7打数7安打・170m弾…など、『魔術師』と称された三原脩監督から「プロ野球から打者を一人選ぶとしたら大下」と言わせた伝説のアーティストが元西鉄ライオンズの大下弘選手です。
打球を簡単にポンポン飛ばすことから付いた愛称は『ポンちゃん』。人柄もよく、戦後日本のスターであった大下弘選手についてまとめてみました。
圧倒的ホームラン数で野球の文化を変える
プロ初出場は1945年11月の東西対抗戦。戦後初の柵越え本塁打を放ち鮮烈なデビューを飾りました。そして1946年には20本塁打を記録。
- 1941年 8本 服部受弘 (名古屋軍)
- 1942年 8本 古川清蔵 (名古屋軍)
- 1943年 4本 古川清蔵 (名古屋軍) 他2選手
- 1944年 3本 金山次郎 (産業軍)
- 1946年 20本 大下弘 (セネタース)
それまでのホームラン王の数字を見てみると、大下選手の圧倒的なホームラン数が際立ちます。この年のリーグ全体のホームラン数は211本。20本の大下選手はリーグ全体の1割弱(9.5%)を一人で打ったことになります。この9.5%という数字は、2011年に中村剛也選手が10.57%をマークするまで、65年間日本記録でした。
当時は強いゴロを打つことが打撃の理想とされていました。しかし、大下選手が放つ数々の大きな放物線のホームランにファンは熱狂し、「ホームランブーム」を巻き起こしました。そのブームは、弾丸ライナーで有名な川上哲治氏が、自身の打撃フォームを変えたほどの影響力がありました。
また、豪快なホームランだけではなく、確実性のある打撃能力も併せ持っていました。1951年には当時の最高記録である打率.383を記録し、首位打者と本塁打王の2冠王に輝きます。2位の蔭山和夫選手は打率.31463。2位との打率の差.068543は日本プロ野球歴代1位の記録でもあり、打者として類い稀なる技術を持っていたことがわかります。
170m!プロ野球史上最長ホームラン
1949年8月18日に日本プロ野球最長とも言われる推定飛距離170mの本塁打を放ちました。昨年トリプルスリーを達成したソフトバンクの柳田選手の最長飛距離が150mと言われ、170mという飛距離は異常なほどです。同年に史上唯一の7打数7安打も記録しました。この時、大下選手は前日のお酒が残っていたらしく「ボールが3つに見えましたわ」と語っていました。
20本塁打を記録した当時はボールも今のように綺麗なボールではなく、つぎはぎだらけな粗悪なボールであったと言われていて大下選手の底知れぬパワーを感じさせてもらいます。大下選手の青バットから放たれた特大アーチは「虹」と評されました。
かつて大下選手とともに史上最強軍団の呼び声も高い西鉄ライオンズを率いた「魔術師」三原脩監督は大下選手を
「日本の野球の打撃人を五人あげるとすれば、川上、大下、中西、長島、王。三人にしぼるとすれば、大下、中西、長島。そして、たった一人選ぶとすれば、大下弘」
と評しました。あのミスターをも上回る存在であったのでしょう。
歌手・美空ひばりに並ぶ国民的スター性と誰からも愛された人間性
大下選手は戦後日本のスター選手として多くのファンから慕われていきました。中でも特に少年たちからの人気が絶大でした。本人も大の子供好きであり、子供たちとのエピソードもたくさん目撃されています。
西鉄時代はデーゲーム終了後、帰宅する大下選手の後ろには大勢の少年たちが付いていき大下選手の自宅で子供たちに野球を教えたり、また夏にはキャンプを行っていました。
引退後も自宅マンションに子供達を集め野球を教え、少年野球の発展に尽力しました。
球に生き、球に殉じた生涯
そんな国民的大打者であった”和製ベーブルース”大下弘選手は1980年に野球殿堂入りました。千葉市営平和公園の墓碑には
「球に生き、球に殉ず身、果報者 青バット 大下弘」
と刻まれています。
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