プレッシャーに向き合った等身大のヒーロー
高校3年生の原選手はドラフト直前にプロ入りを拒否し大学進学を表明し全球団から指名がなくなりました。そこでドラフト直後に巨人が「原の獲得に乗り出す」と言明、東海大学総長の怒りを買い、記者会見で「私の目の黒いうちは原はプロには行かせない、もしプロに行くようなことがあれば彼も死ぬことになる」と発言し騒動になりました。
巨人に入団後、背番号は長嶋前監督が永久欠番になっている自身の背番号3を譲りたいと言うほど期待が高かったのですが、高田繁選手の引退であいた8になりました。
いきなり22本塁打を放ち新人王を獲得。その後も成績を伸ばし、3年目には3割30本塁打100打点の記録を達成。球団史上4人目の快挙を達成しました。
津田の直球をファールし手首を骨折
そしてプロ6年目、ハイペースでホームランを量産していましたが、対広島戦で津田恒実投手の直球をファールした際に左手首を骨折し残り試合を棒に振りました。「バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と言うほど大きな影響をもたらし、絶頂時と骨折後での違和感がずっと消えませんでした。これ以降、骨折した左手首とアキレス腱痛を抱えて選手生活を送ることになります。
主砲の座を退く危機
1993年は故障に悩まされ打撃が不調。プロ入り以来初の規定打席未達。開幕から21試合を経た5月までホームランが出ませんでした。新人時代からのシーズン20本塁打以上の記録が12年で途切れるなど、プロ入り以来最低の成績でした。そして同年オフ当時中日の主砲だった落合選手がFAで巨人に移籍し四番が確実となり、更に追い詰められた状況になりました。
最後の意地をみせる
1994年はアキレス腱を部分断裂し開幕は二軍。一軍復帰時には7番で先発出場し阪神のドラ1位ルーキーの藪投手からホームランを打ち意地を見せました。夏に3打席連続ホームランを打ち、入団以来14年連続2桁本塁打を達成。日本シリーズでは欠場した落合選手に代わり四番で出場。第2戦でこの試合唯一の得点となるタイムリーを打ち、球団創立60周年での日本一を達成しました。
翌年、引退を表明。引退試合にはホームランを放ちました。試合後の引退セレモニーでは苦しかった胸のうちを語り、「今日私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」と引退の言葉を残しました。
監督になった今もその夢の続きということでしょう!
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