「世界の代打男」「最も速い球を投げた投手」〜阪急ブレーブス70年代黄金期を支えた5選手
- 2015/7/1
- プロ野球
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最強軍団
10年間でリーグ優勝6回、 シーズン合計739勝。そして、3年連続日本一。1970年代、圧倒的な強さを誇ったチームがあったことをご存知でしょうか。
その名も「阪急ブレーブス」。
当時黄金期にあった阪急ブレーブスの選手を見てみると、「これは凄い…」と思わず唸るような名選手ばかり。今回は、そんな1970年代に阪急ブレーブスで活躍した偉大な5人の選手を紹介します。
高井保弘
- 守備に難があり、代打での起用が多かったが、相手投手のクセを見抜く観察力と卓越したバットコントロールを武器に1970年代から活躍し始めた。積み重ねた27本の代打本塁打は現在も世界記録となっている。
- 当時指名打者制のなかった日本プロ野球であったが、高井選手の活躍を目にしたアメリカ人記者の提唱により、導入が検討されることになった。
- 1975年に指名打者制度が導入されると先発出場が増え、1979年には打率.324をマーク。1978年から2年連続3割20本塁打という成績を残した。
佐藤義則
- 「東都大学リーグ22勝」の実績を引っさげ、1977年ドラフト1位で入団すると、1年目途中からローテーションに定着し、7勝1セーブの活躍で新人王に輝く。その年の日本シリーズでは王手をかけた大事な第5戦でも登板した。その後78年から2年連続で二桁勝利を挙げた。
- 当時最年長となる40歳でのノーヒットノーランを1995年に達成。また、引退まで140キロ代のストレートを投げ続けるなど、息の長い投手であった。
- ダルビッシュ有投手が田中将大投手に対して「ヨシさん(佐藤)の言うことは間違いない」とアドバイスを送るほどの信頼を得ており、2人を球界のエースへと成長させる効果的な指導をした名投手コーチである。
山口高志
- 初速と終速の差が小さいストレートを武器に、「日本プロ野球史上最も速い球を投げた投手」と言われてる。当時のエースであった山田久志投手は「終速150km/hだ」ともコメントしている。
- 1978年にリリーフに転向し、 投球の大半がストレートという真っ向勝負スタイルのクローザーとして、その年に最優秀救援投手に輝いた。
- 引退後は指導者として活躍。藤川球児投手に右ヒザを伸ばすフォーム改造をアドバイスした結果、「火の玉ストレート」の投げ手として大ブレイクした。
加藤秀司
1970年代の10年間で打率3割越えが8度記録し、首位打者を2度獲得(73年打率.337・79年打率.364)。1121試合に出場し、1233安打・219本塁打・打率.314。70年代で最も活躍した選手打者のの一人である。
阪急ブレーブス打線の3番打者を任されていたが、あまりのチャンスの強さに、次を打つ4番長池徳士選手に「加藤はすごくチャンスに強くて、あいつがみんな走者を返してしまうので、そこで打つなよと言いたくなる時もあったよ」と言わしめた。
米田哲也
プロ野球歴代1位の949試合登板・626試合先発登板。その驚異のスタミナと強靭な身体から「ガソリンタンク」「人間機関車」という愛称が付けられていた。
デビュー2年目の1957年にいきなり21勝をマークし、そこから長きにわたり阪急のエースとして君臨。1957年から1975年まで19年連続の二桁勝利、8度の20勝以上と勝ち星を積み重ね、歴代2位の通算350勝を挙げた。
他にも伝説の選手が
「史上最高のアンダースロー」と称され、通算284勝を挙げた山田久志投手や、通算1065盗塁の「世界の盗塁王」福本豊選手…この5選手に加えて、今なお「伝説」として語り継がれるような、偉大な選手がまだまだいたと考えると、もはや恐ろしいチームであったことでしょう。
改めて阪急ブレーブス、そしてプロ野球の歴史を紐解いてみると面白いかもしれません!
(※1973年以降、パシフィック・リーグは年間130試合を65試合で前後期に分けた「2シーズン制」を導入していました。 )
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