本塁打42本にリーグMVP獲得!ノムさんの選手兼任監督時代がスゴい
- 2016/4/13
- プロ野球
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平成は二選手のみ、昭和に多数存在した兼任監督
自らが監督業をこなしながら、チームの一選手としてもプレーする選手兼任監督。
近年のプロ野球界においては、2006年、2007年シーズンの古田敦也監督(ヤクルト)、そして2014年、2015年シーズンの谷繁元信監督(中日)の二人しか生まれていません。
その一方で、昭和のプロ野球界では戦前から戦後初期にかけて、選手・指導者が共に不足していたという理由から多くの選手兼任監督が生まれました。その中の代表格といえるのが、1970年から1977年まで南海ホークスの監督を務めた「ノムさん」こと、野村克也監督です。
最下位から二位に躍進、三つの重責を担う
野村選手兼任監督が誕生したのは1970年、選手として17年目、35歳を迎えたシーズンでした。前年度、戦後初の最下位に終わった南海の再建を託されることになった野村監督は、「四番打者」、「監督」、「キャッチャー」という三つの重責を担うことになりました。
選手兼任監督として初年度の1970年シーズン、前年度最下位だったチームを立て直し、二位に躍進させました。さらに、打者としても全試合に出場してリーグ二位となる42本塁打を放ち、史上4人目(当時)となる2000本安打を達成するという偉業を成し遂げました。
38歳で初のリーグ優勝、MVPを獲得
そして迎えた1973年シーズン、当時黄金期を築こうとしていた阪急ブレーブスを退け、監督として初めてのリーグ優勝を果たします。また38歳のシーズンながら打率.309、本塁打28、打点96の好成績を収め、リーグMVPにも輝きました。
その後、1977年シーズンまで指揮を務めた野村選手兼任監督は、同年を持って監督を退任し、選手として1980年シーズンまでプレーして現役を引退しました。監督在年8年で5度のAクラス入りを果たす一方、主軸としても200本の本塁打を放つなど監督だけでなく選手としても確かな結果を残しました。
現代野球の基盤となる数々の「革命」を起こす
この8年の間で野村監督は現在のプロ野球界にも伝わる様々な革命を起こしています。阪急ブレーブスの「世界の盗塁王」福本豊選手の盗塁を防ぐために投手へ素早い投球を指示、これは後に「クイックモーション」の名で定着することになりました。
その他にも、他球団で燻ぶっていた選手をトレードで獲得、再生させる「野村再生工場」、阪神からトレードで獲得した江夏豊選手をリリーフへ転向させ、現在の先発、中継ぎ、抑えからなる「投手分業制」の基盤を作り上げました。
その後野球評論家・解説者を経て、1990年にヤクルトの監督に就任し、3度のリーグ優勝を果たすなどヤクルト黄金期を築き上げ、選手としてだけでなく監督としても名将の名をほしいままにしました。
再評価されるべきノムさんの兼任監督時代
野村監督が南海の選手兼任監督を退任してから、29年後の2006年に古田敦也選手が、2007年の古田監督退任から7年後の2014年に谷繁元信選手が選手兼任監督に就任しましたが、共に在任最終年で最下位に終わり、選手としてのキャリアにピリオドを打つことになりました。
野球が日々進化している現代野球では、選手兼任監督として結果を残すことは非常に困難であると言えます。だからこそ野村監督が残した南海ホークスでの8シーズンはプロ野球史に残る功績として今後も語り継がれていくべき偉業であると言えるでしょう。
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