『探究心』と『オタク力』を武器に32年間!球界のレジェンド山本昌の軌跡。
- 2016/1/9
- プロ野球
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ドラ5位から219勝投手へ
2015年シーズンを持って現役引退を発表したのが山本昌選手です。1983年に中日ドラゴンズにドラフト5位で入団してから32年、50歳で現役生活にピリオドを打ちました。
「これ以上、自分で筋書きをつくれと言われても難しいくらいの野球人生、現役生活を送れましたので、本当に幸せな野球選手だなと思います」
自身の引退会見でこのように語った山本選手。219勝の勝ち星を始め、最多勝、沢村賞、ノーヒットノーランなど、数々の偉業を成し遂げたレジェンドですが、山本選手のキャリアは必ずしも順風満帆ではありませんでした。長く続けられたのも挫折を重ね、その度に試行錯誤を繰り返して、その都度進化を遂げてきたからです。
4年目まで白星ゼロ。5年目でのアメリカ留学が飛躍の転機に
山本昌選手は「大器晩成型」の代表的な存在でもありました。
入団して2年は一軍で登板機会もなく、3年目で訪れたプロ初登板も3分の2回を2失点というほろ苦いデビューで、4年目は怪我もあり3試合の登板と入団当初は鳴かず飛ばずでした。そんな山本選手の転機となったのは、5年目に訪れたアメリカ留学です。
ロサンゼルスドジャースの1Aベロビーチ・ドジャースに送り込まれ、後の恩師であるアイク生原さんと出会います。
そこで、山本昌選手の代名詞となったスクリューボール、低めへのコントロールの重要性などを指導され、投手として進化を遂げることになります。
マイナーリーグで結果を残し、日本に帰国すると後半だけで初勝利を含む5勝を挙げ、6年目を迎えた1989年からようやく先発の一角として活躍するようになります。
『天才』としのぎを削った『秀才』
1990年代前半は山本選手のキャリアの中でも全盛期と呼べる活躍で球界を代表する左腕にのし上がっていきました。93年には最多勝と最優秀防御率のタイトルを獲得し、94年シーズンも2年連続の最多勝、そして初の沢村賞を獲得しました。今中慎二選手と並ぶ『Wサウスポー』は中日投手陣だけでなく、球界のシンボルとなりました。
そんな山本選手の隣には、常に天才と呼ばれる選手がいた。上記の今中選手を始め、川上憲伸選手、野口茂樹選手、チェン・ウェイン選手、吉見一起選手…。彼らを天才と呼ぶとすれば、山本昌選手は秀才だったと言えると思います。プロ入りしてから周りのプロ野球選手のレベルの高さに驚き、挫折を重ねながらも、持ち前のスクリューボール、正確なコントロール、球速以上の速さを感じさせるストレートを身につけ、厳しいプロの世界を生き抜いてきたのです。
『オタク気質』と飽くなき『探究心』
山本昌選手と言えば、野球以外にもラジコンを始めとして、昆虫集め、漫画、ゲーム、歴史など多趣味として知られていました。ラジコンに至っては、自身主催のレースを開催するなどのハマりようでありました。一つのことにのめり込んだら、とことんハマる、いわゆる「オタク気質」の持ち主です。その性格がプロ野球の世界でもいい方向に作用し、徹底的なフォームの研究、40代を迎えてからも新球カットボールに挑戦するなど持ち前の「オタク気質」で貪欲に自分を進化させていきました。
この辺りの飽くなき探究心も山本選手が32年プロ野球で生き抜いた秘訣でした。とにかく粘り強い人間力が32年も厳しい世界に身を置かせたのです。
再びユニフォームを着る日は来るのか?
「投げることに関しては32年、精いっぱい勉強したという自負がありますけど、野球全般のことは意外と知らないかなと思っています。またユニフォームを着るチャンスをいただけけるように勉強していきたいと思っています」
引退会見ではこのように語っていました。山本昌選手は昭和40年生まれの選手で結成されている「昭和40年会」に所属していますが、その主なメンバーである古田敦也さんや渡辺久信さんは40代ですでに監督を経験しています。50歳を迎えている山本選手もいずれは監督やピッチングコーチとして、ユニフォームを着る姿を見せてくれるはずです。その日が来るのを楽しみに待っていたいものですね。
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