超スローカーブで脚光を浴びた東海大四・西嶋亮太、野球人生の光と影【前編】

本記事はSpotunityコラムからの転載です

人懐っこくていたずら好き。それが西嶋亮太の印象だった。マウンド上でニヤッと笑う口元は、どこか少し余裕を感じさせる。周囲から批判的な言葉を受けたときも、冗談で切り返す利発さやハートの強さを感じた。

そんな西嶋が2018年、ユニフォームを脱いだ。
高卒で社会人野球へ進み、4年目の秋だった。

「今までこういう気持ちとかは、誰にも言わないできたから」

本当の西嶋は、常に余裕だったわけでもハートが強かったわけでもなかった。2014年、高校3年の夏に“超スローカーブ”で時の人となってから常に注目を浴びてきた西嶋の、光と影。現役を引退した今、その野球人生を語ってくれた。

内野手から投手へ

初めてボールを握ったのは3歳のとき。小学生になった兄が野球を始めたタイミングだった。最初はひとりで壁当てをしているだけだった西嶋も、小学生になると帯広東フェニックスで本格的に軟式野球を始めた。

小学6年で、ファイターズジュニアに選出される。「800人の応募があって、選ばれるのはたった18人。野球人生でそれが一番嬉しかったかもしれないです」と語る西嶋は、当時内野手だった。この年のファイターズジュニアは準優勝という好成績を収めた。

中学2年のとき、投手をやる気は全然なかったという西嶋に転機が訪れる。「当時入っていたとかち帯広シニアが、3学年合わせて14人しかいなかったんです。だから、投げられる人は投げるという感じで。たまたまエースがケガでピッチャーがいないよ、となって僕が投げることになったんですけど、その試合で3安打完封しちゃって」

投手の適性を感じさせた右腕・西嶋は、とかち帯広シニアでも全道優勝を成し遂げ、強豪だが10年以上全国大会への出場がなかった札幌の東海大四高校(現・東海大札幌)に進学することを決める。

「小6から結構東海大四の応援に行っていたんです。伏見寅威(東海大-オリックス)という選手いるじゃないですか。兄が1年生でベンチに入っていたんですけど、そのとき3年生で寅威くんすごいなーと思って見ていて。東海大四が格好良く見えて、中2の秋にはもう決まっていました」

東海大四に入学してからは、甲子園を目指す日々が始まった。高2の夏「あまり誰に何を言われたかは覚えていない方だけど、これは今でも覚えています」という悔しい出来事があった。

「夏の全道大会で2年生だけど投げていて、その試合は完璧に抑えたんだけど、左の指がつっちゃったんです。手が固まったまま動かなくなっちゃって。それで、大脇監督が病院に連れて行ってくれたのですが『何が甲子園だ。お前は所詮そこまでだよ。中学のとき優勝して鳴り物入りで入ってきたけど、高校のレベルではそこまでだ。高校野球をなめるな』と言われたんです。くそーと思って、そこから、まじで絶対甲子園行ってやろうと思いました」

インターネットの掲示板でも「西嶋は高校では大したことない」という言葉を目にしたが、実際に結果を出していないことを自身で受け止め、周りを見返すことを心に決めた。

高2の秋の新人戦、春の選抜高等学校野球大会の出場もかかる大会で、東海大四はベスト4となった。準決勝では、苫小牧駒澤大のエースでドラフト候補とも言われている伊藤大海(当時、駒大苫小牧高)と延長12回まで投げ合い、1-0で惜敗した。

周囲の期待も高かった東海大四だったが、全国の舞台に立つにはまだ何かが足りない。そんなとき、西嶋にまた転機が訪れた。「その年の11月、TDKの練習に参加したんです。侍ジャパン社会人代表にもなったピッチャーの阿部正大さんにいろいろ教わりました。技術的なことではなく、社会人らしさというか精神的なことがほとんどですね。緩い球の使い方とか、あとは自分で一回試合をぶち壊してみろと。悪くでもいいし良くでもいいし。悪かったら次の試合ではこの前の試合悪かったから大丈夫みたいになるし、良かったらこの前あれだけ良かったんだから俺はできる、みたいになると。それからは適当に考えるようになりました」

精神面を大きく変えたあとは、さらに勝つための方法を考えていった。その冬、肩に違和感を感じたことで一度投球フォームが崩れてしまった。北海道の冬は寒く、余計に肩を痛めたくないという思いから肘を下げて撫でるような投げ方になり、綺麗な軌道ではあるが相手にとっては打ちやすい球がいくようになってしまった。それではダメだと、大谷翔平を参考に上から叩くように投げてみた。捕手の上野純輝(現・TRANSYS)に「どうした今日?なんかやってみた?いいよ、それでいけよ」と言われ投球フォームが固まった。そしてこのあと、その後夏の甲子園で注目を浴びる“超スローカーブ”が生まれることとなる。
 

“超スローカーブ”と心理戦

当時、130㌔前半のストレートと120㌔前後のスライダーを中心に投球を組み立てていた西嶋だったが、1試合に1球投げるかどうかという110㌔前後のカーブも持っていた。「コントロールには自信があったのと、3年生になってから勝てるという確信が出てきたのもあり、今までほとんど投げなかったカーブを多投しだしました。まっすぐとスライダーだけだと、スライダーのキレはまあまあでもまっすぐが打たれちゃうんですよね。本当にノーマルな打ちやすいピッチャーだったので。それでまっすぐを速く、カーブを遅くすることで変化をつけたんです。そんな中で超スローカーブも生まれて。オープン戦でまっすぐとカーブだけで一試合やったりしました。まっすぐとカーブだけ投げるとなると、よりコントロールが大切になってくるじゃないですか。案外打たれなかったんですよ」

こうして武器を増やしていく中で、一番大切にしていたことがあった。「練習はそんなにしなかったけど(笑)野球の勉強はかなりしました。球はそんなに簡単に良くなるわけじゃないので、配球が大切になりますよね。試合後キャッチャーと3時間くらいビデオ見ながら話したり、オープン戦でノーサインで一試合やったりもしました。このカウントでキャッチャーがここに構えているから…と一球一球考えながら。試合後にあそこはこうであそこはこうだったよ、とお互いの考えを話し合いました。ちょっと怖かったけど、できたときには絶対甲子園に行けるなと思いました」

そして、こう続ける。「いい選手には打点さえ与えなければ打たれてもいいけど、たとえば下位打線とかには打たれたくないんですよね。意外なバッターに打たれてテンポが崩れたら、野手も嫌じゃないですか。それに高校生って、自分が自分が、という感じじゃないですか。僕もそう思ったら相手と同じになってしまうので、一歩引いてどうせ俺なんか無理だなという態度をとりながらガツガツいってみたり、引いてみたり。相手が熱くなるような態度をとって、こいつつぶせ!となっているところでインハイに投げたり、スローボール投げたりという心理戦もしました。嫌われましたけど、そんなの知ったこっちゃないです(笑)」

ここまででも高校生とは思えない冷静さを持っていたと感じられるが、西嶋の頭脳はこんなものではなかった。「ピッチャーって結構球種を隠したりするじゃないですか。僕は違うと思うんですよね。とりあえず自分を知ってもらいたいので、初回に全部の球種を出して相手にデータをとってもらいます。初球はここ、このカウントでこれ、何パーセントって数字でしっかり出して欲しいんですよ。そうやって情報をたくさん与えてから、その情報通りにやりつつ、逃げつつ、迷わせる。データと違うことをやって迷わせておいて、また戻してきて、というように」

数々の心理戦をしかけながらストレート、スライダー、カーブで相手を翻弄し、この年0.60という防御率の西嶋を擁する東海大四高校は21年ぶりに全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園出場を決めた。

現在の西嶋亮太さん

後編はこちら

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G-TIMES編集長総合編集長

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野球に関する様々な情報・意見を発信するサイトG-TIMESの編集長です。


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