知ってた?実は日本人初のメジャーリーガー『村上雅則』投手ってどんな選手?
- 2016/4/20
- メジャーリーグ
- 知ってた?実は日本人初のメジャーリーガー『村上雅則』投手ってどんな選手? はコメントを受け付けていません
野球留学からメジャーリーガー第1号に!マッシー・ムラカミ
野茂英雄投手が海を渡りメジャーリーグに挑戦しておよそ20年。イチロー・松井秀喜・井口資仁・ダルビッシュ有・田中将大・前田健太…続々と日本人選手が挑戦してきました。しかし、野茂投手より30年も早くにメジャーリーグのマウンドに立った日本人ピッチャー。それが今回のご紹介する村上雅則投手です。
野球留学からのメジャー昇格
- ・高校時代は法政二高の野球部に所属。2年生の時に控え投手として春の選抜に出場し、春夏連覇を達成しました。その夏にも法政二高は甲子園に出場しますが、村上投手の出番はありませんでした。翌年の夏にエースとして挑みましたが準決勝で敗退してしまいました。
- 「グランドには、銭が落ちている」という名言でも知られている鶴岡一人監督の目に留まり、1962年に南海ホークス(現ソフトバンク・ホークス)と契約を結びました。
- 2年目の1963年にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣され、英語が全くわからない中、辞書を使ってコミュニケーションを図っていました。
- 当初は6月中旬までの派遣予定でありましたが、この年の南海はスタンカ選手・杉浦選手・野村克也選手・広瀬選手を擁し、日本一になるほど戦力が充実しており、期間要請がありませんでした。
- そして、同年8月31日に突然メジャー昇格を果たしました。9月1日のニューヨーク・メッツ戦で日本人として初めてメジャー登板を果たしました。
レジェンド多き時代
村上投手が在籍していた時代のメジャーリーグには、今となっては伝説の名プレイヤーが大勢いました。まず、ジャイアンツの同僚である「the catch」で有名なウィリー・メイズ氏とは誕生日が同じということもあって可愛がられていました。エースであったワーン・マリシェル氏とは昇格した日にディナーにいき、「今日は同席に合わせてローストビーフでも仕方ないが,給料の安い私はとても明日からはこんな贅沢は出来ない」と考えていたそうです。
通算安打数4256本で世界記録を保持しているピート・ローズ氏(シンシナティ・レッズ)には、腕まくりをして腕の自慢をされ、慈善活動に熱心な選手に送られるロベルト・クレメンテ賞の元になったロベルト・クレメンテ氏にはメイズと自分だとどちらの実力が上か問われ、メイズと答えたら、「何故だ?」と真顔で迫られました。
左腕の神様と称されたサンディ・コーファックス投手(ロサンゼルス・ドジャース)からは、意表をつくセーフティバントを決め、
僕は投手で打撃では自慢できることはないが、唯一の勲章がコーファックスからヒットを打ったただ一人の日本人だということだ。
と度々話しています。当時のコーファックス投手の絶頂時代で、彼からヒットを打つのはフォークでコーヒーを飲むぐらい難しいと言われていました。
当時のレジェンドプレーヤーとのエピソードが残っている日本人は村上投手だけでしょう。
日本人初のメジャーリーガーのその後
村上投手は野茂投手のように望んでメジャーに行ったわけではありませんでした。ですが、メジャーでの経験から、1966年の日本復帰1年目は6勝4敗でリーグ優勝に貢献します。その後の活躍は以下のようになります。
- 1968年 18勝を挙げる 最高勝率獲得
- 1971年 チームトップの14勝を挙げる
- 1974年 登板機会減少 オフに阪神へとトレード
- 1975年 日本ハムへとトレード
- 1977年 リーグ最多登板
- 1978年 2年連続最多登板で12勝を挙げる
- 1981年 リーグ優勝に貢献
- 1982年 現役引退
- 1983年 サンフランシスコジャイアンのスプリングキャンプに参加 打撃投手として契約
NPB通算18年 103勝82敗30セーブ防御率3.64
「メジャー挑戦」という発想そのものが薄かった時代。突然訪れたチャンスを掴み、「第1号」となった村上投手の功績は、讃えられるべきものでしょう。
いいね!して
いち早く記事を読もう!
▼ ▲
G-TIMESベージに[いいね!]しよう!